坂本龍馬は天保六年(1835)に高知城下の郷土坂本八平の次男として生まれた。
龍馬の家族は兄権平、姉に千鶴、栄、乙女があった。
少年期に土佐で小栗流を学んだが、嘉永六年(1853)三月には土佐を出立し江戸に剣術修行に旅立った。
江戸では北辰一刀流の千葉道場で学んでいる。
嘉永六年(1853)六月には相州浦賀浦賀にペリー率いる米国艦隊が現れて幕府に開国を迫り
大きな騒動となった。龍馬も影響をうけたはずだ。
ここからは日本史は「幕末」という激動の時代に入ったのである。
このペリー来航に関しては黒船や上陸したアメリカ人などを題材に多数の絵が描かれた。
龍馬書簡 安政三年九月二十九日 相良屋源三郎宛
ペリー来航図巻(甲寅記事画巻)
龍馬が土佐を出て天下に活動の場を求めたのは文久二年(1862)三月のこと。
いわゆる龍馬脱藩である。
龍馬は諸国行脚ののちに江戸で幕臣勝海舟弟子になり勝の推進する神戸海軍操練所の創設に
奔走することになる。
この文久三年三月には京都が政治の舞台となり、長州系の尊王攘夷運動が高揚を見せていた。
しかし、文久三年八月の政変で会津藩や薩摩藩など公武合体派によって過激な公郷と
長州藩は京都を追われた。
そののち元治元年(1864)六月には京都回復を狙う尊攘派の志士らの謀議が発覚して
新選組に襲われた。いわゆる「池田屋騒動」が起きたことによって憤激した長州軍が
上京して御所を取り戻すために幕府軍と衝突した。「禁門の変」と呼ばれるこの戦いで
京都は大火に見舞われたのである。
龍馬書簡 元治元年六月二十八日 坂本乙女宛
甲子兵燹図
現在残っている龍馬の手紙は内容が記録されたものを含め約140通である。
姉の乙女への手紙が特に面白い。龍馬の人間性が乙女宛の手紙に最大限発揮されているのだ。
ユーモアを含み、赤裸々に語りかけ、冗談を混ぜて返すなど龍馬の人間性が文面から伝わってくる。
手紙の一部には何が言いたいのかがわかりにくい不思議な文面もあるのだが、そこにこそ
龍馬の真意があるように思われる。また、たとえ話の多さも龍馬の手紙の特徴だ。
今回の展示では新たに見つかった書状もいくつか紹介する。
多くの直筆の手紙から龍馬の心根に直接触れて頂きたい。
龍馬書簡 文久三年六月二十九日 坂本乙女宛
下関戦図 溝淵広之丞・龍馬合作
龍馬の遺品が今に伝わっている。
親族・子孫・関係者らが後世の人間がこれらを大事に伝えてきたのだ。
龍馬の死を伝える梅椿図(血染掛軸)は近江屋二階の暗殺現場にあったもので事件の
凄惨さを物語っている。
また、弥太郎氏寄贈の刀二口のうち、一つは暗殺時に刺客の刃を鞘ごと受けたとされる
「陸奥守吉行」であり、近年見え難かった刀の波紋の調査等から実態が解明されつつある。
もうひとつの理忠明寿銘の刀は近年の坂本家記録の検討から龍馬が海援隊士菅野角兵衛に譲ったもの
という伝世の経緯が明らかになってきた。
さらに最近所在が判明した龍馬の脇差は北海道の関係者の家に伝わってきたものである。
これらの遺品がどこでどこでどのようにして伝えられてきたのかも研究のテーマの一つである。
坂本龍馬佩刀 陸奥守吉行